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『世界はなぜ地獄になるのか』のイメージイラスト(実際の表紙ではありません)

自分らしく生きられる社会が、キャンセルを生む。著者はそう論じる。

イラストはイメージです(実際の表紙とは異なります)

社会・経済・科学

世界はなぜ地獄になるのか(小学館新書)

橘玲 ・ Kindle版

SNSキャンセルカルチャー社会進化心理学
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ひとことで言うと橘玲さんが、リベラル化の副作用としてキャンセルカルチャーが生まれる仕組みを論じる新書です。SNSが地位競争を世界規模にしたという進化的ギャップで説明し、ユートピアとディストピアは一体で、仕組みを理解して適応するしかない、と結論づけます。

INTROどんな本か

最初に断っておく。この本は、論争的なテーマを扱っている。ここに書くのは、すべて著者の見方と主張の紹介で、賛否を述べるものではない。

作家の橘玲さんの小学館新書で、2023年8月刊。『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』に続く一冊で、キャンセルカルチャーを正面から扱う。枠組みは、リベラル化が生んだ問題を、リベラルが解決することはできない、というものだ。

著者はリベラルを「自分らしく生きたい」という価値観と定義する。その広がりの副作用として、格差拡大、社会の複雑化、孤独、アイデンティティの衝突の4つを挙げる。

本論は、小山田圭吾さんの辞任、ポリコレと言葉づかい、会田誠展への抗議、地位をめぐる進化心理学、社会正義の理論と思想史、そして生き延び方、の順で進む。

説明の軸は「進化的ギャップ」。人類は約150人の共同体で進化してきたのに、SNSで世界規模の評判競争に投げ込まれている。不道徳な者を叩くと、相対的に自分の地位が上がる。その快感が、匿名で低コストになった、という見立てだ。

誰が悪いかではなく、なぜそうなるのか。告発でも擁護でもなく、構造の説明に徹しようとしている。この本の価値は、たぶんそこにある。

俺は2026年に「正解が早すぎる社会構造」で、正しい言葉でも、整理される前に届くと、人は防衛するか、反発するか、黙る、と書いた。この本の後半には、正しさの要求が強まるほど、多数派が他者との関わりから撤退していく、という著者の指摘が出てくる。正しさを否定する話ではない。届き方と、その先で起きることの話として、同じ構造を見ていると思う。

もうひとつ。2024年に嫉妬について書いたとき、俺は、嫉妬は羨ましさを認めないための正当化だ、と書いた。著者のいう、叩くことで相対的に上がろうとする地位のゲームは、その正当化が群れの規模で起きている姿に見える。

扱う論点には異論が多い。とくに性自認や人種をめぐる記述は、当事者や研究者から強い批判がある分野だ。著者の主張と、それへの批判がある、という前提で読むのが誠実だと思う。

それでも、炎上を目にしたとき、発信するとき、チームの言葉を決めるときに、一歩引いて構造を見るための見取り図にはなる。結論は重い。仕組みを知っておくことは、それ自体が身を守る道具になる。

CHAPTERS章ごとの中身

はじめにリベラル化の副作用は4つある

冒頭は、ジャニー喜多川氏の性加害をめぐる経緯から始まる。業界では長く知られ、2004年に最高裁で記事の重要部分が真実と確定したのに、大手メディアは黙殺した。2023年3月のBBCの番組、4月の元タレントの会見で、ようやく動いた。著者はこれをワインスタイン事件や#MeTooと重ね、「特別な世界」が一般社会の規範に吸収される流れだと見る。

そのうえでリベラルを「自分らしく生きたい」という価値観と定義する。1960年代末から広がり、いまは保守派も否定できない。その実現をめざす運動が社会正義だ、と。

副作用は4つ。①格差拡大(公正な社会ほど環境の差が減って遺伝の影響が増え、男女の得意分野の差も先進国ほど開く)。②社会の複雑化(中間共同体が消えて、利害調整ができなくなる)。③孤独(自己責任と引き換えに共同体の支えを失い、婚姻率や出生率が下がる)。④アイデンティティの衝突。

著者の主張では、「リベラル政策で格差は解消できる」という信念と現実のずれを、陰謀論で埋めようとする動きが出てくる。欧米のポピュリズムやインセルの暴力は、リベラル化の敵ではなく必然的な帰結で、戦っても倒せない、とされる。

自由が広がるほど、別の苦しさが生まれる。この本は全体を通して、その一点から動かない。

PART1小山田圭吾さんの辞任と記事の切り取り

2021年7月、東京五輪・パラ開会式の作曲担当だった小山田圭吾さんが、過去の雑誌インタビューでのいじめや障害者への発言を批判されて辞任した。著者はこれを、日本にキャンセルカルチャーの到来を告げた事件と位置づける。事実関係は片岡大右さんの著作に依拠し、解釈は一部異なる、と断っている。

1995年の『クイック・ジャパン』の記事について、著者はこう整理する。和光学園は障害のある子を普通学級に受け入れていて、語られたのは障害のある同級生との非日常的な体験と、友情とは言えないが確かにあった交流だった。ところが2006年の匿名ブログが、本人の戸惑いを示す部分を削って一方的な加害者像に編集し、それが批判の主な根拠になった、と。

一方で、1994年の『ロッキング・オン・ジャパン』の記事は露悪的で擁護は難しい、と著者も認める。ダウン症の人を揶揄する発言など、今の価値観では許されない部分があることも認めたうえで、本人が認めた加害が、50代の音楽家を社会から消すほどの罪なのか、と問う。

結論は厳しい。謝罪すれば済む問題ではなかったとし、五輪の仕事を引き受けるべきではなかった、と述べる。キャンセルされうる地位に就いた者だけが攻撃される。それがキャンセルカルチャーの特徴だ、という論じ方だ。

原典と、編集された二次情報は違う。炎上を見たとき、まず確かめるべきはそこだと思う。

PART2ポリコレは新しい行動規範づくり

著者はポリコレを、行動規範づくりの試行錯誤として説明する。人類は約150人の共同体(ダンバー数)で暮らしてきた。冷戦後のグローバル化で、異なるルールの人々が日常的に出会うようになった。ルールを決めると誰かの既得権を侵すので、それ自体が政治闘争になる。制度上の差別がほぼなくなった結果、「心理的な暴力」、典型的には言葉づかいが前面に出てきた、と。

言葉づかいは、相手との距離の操作だという。日本の「さん」づけも、米国のファーストネームも、全員との距離をそろえる点では同じ。黒人の同僚だけを敬称で呼べば、それが差別になる。日本語の敬語は身分制の産物でフラットな関係に向かず、「させていただく」は相手の許可が前提なので、許可を求めない場面では欺瞞になる。敬意はすり減るから、敬語のインフレが起きる。必要なのは「敬語警察」ではなく、身分制を前提にした慣習をなくすこと、というのが主張だ。

人種や性の呼び名の歴史も細かく扱われる。コーカソイドとアーリア人説がナチスの優生学に悪用された経緯、White/whiteの大文字論争、シス/トランスは性自認、異性愛/同性愛は性的指向による入れ子の区分、など。障害の表記は、2010年の政府の会議でも「障碍」「障がい」で意見が割れて決まらなかった。著者は、言葉の言い換えではなく、支援と包摂の問題だと論じる。

俺は、この章がいちばん実務に近いと思う。社内の呼び方を全員同じ距離にそろえる。それだけで避けられる摩擦は、たぶん少なくない。

PART3抗議は作家ではなく展示の場に向かう

2013年、森美術館の会田誠展に、市民団体が「犬」シリーズなどの撤去を求めた。館は「対話の契機」と回答し、会期どおり開催した。

著者の見立てでは、抗議は作家ではなく展示の場に向かう。作家と直接争うと、表現の自由を抑圧する側に見えるからだ。『月曜日のたわわ』の新聞広告、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」、品川駅の広告も同じ構図で、右も左も同じだ、と。

不自由展では、昭和天皇の写真を燃やす映像に保守派が反発し、電凸や脅迫が続いて、知事が開始2日で中止を決めた。その後の知事リコールでは、署名の偽造で逮捕者が出た。著者はこれを、ネットの熱狂と一般の無関心の象徴として見る。

「傷ついた」を理由にキャンセルを認めれば、相手側にも同じ権利を認めるしかない。議論で合意をめざすしかないが、道徳の議論は感情的になり、「論破」の応酬になる、と著者は論じる。

右も左も同じ構図だ、という指摘は、どちらの側にいる人にも居心地が悪い。だからこそ、構造として覚えておく価値がある。

PART4SNSは地位競争を世界規模にした

ここから進化心理学の話になる。マーモットの英公務員研究では、職階が下がるほど死亡率が段階的に上がり、中年では最上位と最下位で約4倍だった。原因は「ステイタス競争」とされる。2019年の国際比較では、欧州は肉体労働者の死亡率が高いのに、日韓は管理職・専門職が高く、平社員が最も低い。著者は負担の集中と、社員はみな平等という気疲れを背景に挙げ、若手が管理職を避けるのは合理的だとする。

脳は、上との比較を損失、下との比較を報酬と感じる。人は写真や声の低音域だけで、瞬時に上下関係を見抜く。仲間外れの実験では、身体の痛みと同じ部位が反応する。

地位を上げる戦略は、成功、支配、美徳の3つ。自己犠牲は高くつくので、不道徳な者を叩いて相対的に上がるほうが手軽で、快感もある。SNSがそれを匿名で低コストにし、キャンセルカルチャーの生物学的な背景になった、と著者は論じる。150人規模の共同体で進化した脳が、世界規模の評判競争に投げ込まれ、走り続けないと評判を保てない(赤の女王)。推し活は個人とのアイデンティティ融合で、所属集団の地位が上がれば自分も上がった気になる、という整理もある。

人と比べないことが大切だ、と俺は2024年に書いた。この章を読むと、それがどれだけ難しいかもよく分かる。脳が、上との比較を損失として感じるようにできているのだから。比べないのは性格ではなく、意識してやる設計の問題だと思う。

PART5社会正義の理論と思想史の二度の転回

脱北者のパク・ヨンミさんは、米大学の言葉の統制を北朝鮮と重ねた。2015年のイェール大では、ハロウィン衣装の指導に疑問を呈したメールで、教授夫妻が学生に糾弾されて辞任した。同僚は報復を恐れて、公然とは擁護しなかった、と著者は紹介する。ハイトとルキアノフは、SNSとともに育った世代が大学に入った頃から異変が増え、10代女子のうつや自傷が急増したと主張している。

批判的人種理論について、著者は、構造的差別の分析自体は一般的だと認めたうえで、ディアンジェロ氏の議論は反証できない「宗教運動」に近いと評する。マイクロアグレッションも、感情が証拠になるため、相手が否定すれば合意できず、法では解決できない、と問題視する。

偽論文実験も取り上げられる。プラックローズ、リンゼイ、ボゴシアンの3人が2017〜18年に20本を投稿し、7本が掲載・受理された。代表例は「犬の公園の性暴力」を観察したという体の論文だった。

思想史の整理はこうだ。ソシュール、構造主義、フーコーの権力論、デリダの脱構築が米国に渡り、ポストコロニアル理論、クィア理論、批判的人種理論の土台になった。本来の相対主義が、1980〜90年代に社会正義と結びつき(一度目)、2010年代に差別を実在とみなす段階(二度目)を経て、「絶対的正義」へ反転した、と。特権を悪、抑圧を善とする二元論が、かえって問題解決を妨げる、という見方だ。

ここは著者の批判がもっとも強く出る章で、反論も多い分野だ。主張として受け取り、判断は保留しておきたい。

PART6地雷原に近づかない、という処方

マレーの『大衆の狂気』は、性や人種などの論点を「地雷原」と呼ぶ。著者の処方は、近づかないこと。性差は0か1ではなく分布の重なりで、集団内のばらつきが集団間の差より大きい、とも説く。性と性自認をめぐる議論では議論のある学説も紹介されていて、当事者や研究者から強い批判がある分野なので、ここは著者の主張としてだけ受け取っておきたい。

正義の三分類は整理として役に立つ。平等(結果)、公平(努力に応じた報酬)、公正(両方)。乳児の実験やチンパンジーの抗議から、正義感覚は生得的で、条件が同じなら平等、努力が違えば公平を好む、とまとめる。保守もリベラルも社会正義を求めていて、基準の違いで対立しているのだ、と。

そのうえで著者は逆説を指摘する。属性で人を判断しないという原則さえ批判される状況では、マジョリティにとって最も合理的なのは、マイノリティと関わらないことになる。人々はSNSの正義の怒りから、家族や友人の小さな世界へ撤退していく。俺が「正解が早すぎる社会構造」で書いた、防衛、反発、沈黙は、ここでは社会の単位で起きている。

対処法は具体的だ。匿名のSNSは脳のブレーキを外す。山口真一さんの研究では、炎上参加者は男性・高年収・管理職層に多い。そのうえで、反論せずブロックする、個人批判をしない、フェアの立場を明確にする、専門外は無難な投稿にとどめる、と助言する。

最後は「キャンセルカルチャー産業」の話。DEI研修の受注で稼ぐ人や、Time's Upの資金の使われ方を数字で挙げ、キリスト教が地獄の恐怖と救済を売ったのと同じ構図だとする。世界が地獄になるのは陰謀ではなく、それで得をする者がいるから、と著者は結ぶ。

あとがきユートピアとディストピアは一体

あとがきでは、フクヤマ『リベラリズムへの不満』の三勢力が紹介される。リバタリアン、コミュニタリアン、エガリタリアン。処方は「寛容と中庸」で、著者は凡庸だが他に解はないとしつつ、不寛容な者への対処には答えがない、と指摘する。

著者の答えは「天国はすでにここにある」。豊かで自分らしく生きられる社会(ユートピア)から、キャンセルカルチャー(ディストピア)が生まれた。両者は一体で出口はなく、仕組みを理解して適応するしかない、と。AIなどが脱出口になる可能性にも触れている。

答えは重い。俺は、この結論に賛成か反対かを決めるより先に、炎上が起きる仕組みの見取り図として手元に置いておくのがいいと思う。

LESSONS明日から使える教訓

  1. 炎上を見たら、原典に当たれまとめや匿名ブログではなく、元の記事や発言を確かめる。象徴的な役を引き受ける前には、自分や組織の過去の記録を点検しておく。切り取られた情報で人を裁かないことは、自分を守ることでもある。
  2. 呼び方は、全員同じ距離にそろえろ特定の人だけ扱いを変えない。外国人を含むチームでは、最初に呼称のルールを決める。事業づくり的にいうと、ルールは揉める前に決めておくものだ。
  3. 対立では、事実と感情を分けろ「傷ついた」と「悪意はない」がすれ違う構造を踏まえて、事実と感情を別々に扱う。広告や公開物は、媒体やスポンサーの判断基準を先に確かめておく。俺は、この切り分けがこの本でいちばん実用的な部分だと思う。

CONCLUSION俺の結論

結論。炎上を見たら、加わる前に一度止まる。元の発言を確かめ、それが誰の地位を上げるゲームになっているのかを見る。

発信するなら、専門外の地雷原には近づかない。極端な相手には反論せず、距離を置く。チームの中では、呼び方と距離をそろえておく。

著者の結論に賛成かどうかは、人によって分かれていい。ただ、叩く側に回るときの快感がどこから来るのかは、知っておいたほうがいい。それだけで、地獄の一部にならずに済む場面は増える。

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この本とのつながり:炎上や中傷を、個人の道徳ではなく、プラットフォームの仕組みと責務の問題として扱う動きです。本書の、場に向かう抗議や、SNSが叩きを低コストにするという見方と重なります。

FOR YOUこんな人におすすめ

合わないかもしれない人:特定の立場から社会正義を擁護する本を求めている人。この本は著者の見方で、批判的な論点を多く含みます。

FAQよくある質問

『世界はなぜ地獄になるのか』はどんな本ですか?

橘玲さんによる小学館新書(2023年8月)です。リベラル化の副作用としてキャンセルカルチャーが生まれる仕組みを、進化心理学や思想史を使って論じています。

本書のいう「リベラル」とは何ですか?

「自分らしく生きたい」という価値観のことです。その広がりの副作用として、格差拡大、社会の複雑化、孤独、アイデンティティの衝突の4つが挙げられています。

キャンセルカルチャーはなぜ起きるのですか?

本書は、切り取られた二次情報と、公的な地位に就いた瞬間に過去が掘り起こされる構造を挙げています。さらに、不道徳な者を叩くと相対的に地位が上がる快感がある、と進化論的に説明しています。

炎上の矛先はなぜ「場」に向かうのですか?

会田誠展や「表現の不自由展」の例から、抗議が作り手より展示の場(美術館、新聞、広告主)に向かう構図が指摘されています。右派も左派も同じ構図だとされます。

「進化的ギャップ」とは何ですか?

脳が約150人規模の共同体で進化したのに、SNSで世界規模の評判競争に投げ込まれている状態を指します。地位への敏感さが、SNSで増幅されるという説明です。

本書が勧める「生き延び方」は?

人種・性別・歴史問題などの地雷原に専門外で近づかない、反論せずブロックする、個人批判をしない、といった方針です。発言するなら、経緯と事実を調べる時間を確保します。

本書の結論は何ですか?

豊かで自分らしく生きられる社会(ユートピア)から、キャンセル(ディストピア)が生まれ、両者は一体で出口はない、というものです。仕組みを理解して適応するしかない、と述べています。

本書への批判や注意点はありますか?

すべて著者の見方・主張で、事実関係や評価には異論も多い本です。特に性自認や人種をめぐる記述は、当事者や研究者から強い批判がある分野です。

仕事にどう使えますか?

炎上時に原典を確認する、社内の呼び方を全員同じ距離にそろえる、対立では事実と感情を分ける、といった実務の教訓が得られます。

前著との関係は?

『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』に続く一冊です。前著の続きとして読めますが、本書から読み始めることもできます。

MONOGENIC伊丹谷のブログから

ご注意:論争的なテーマを扱う本で、内容はすべて著者の見方・主張です。事実関係や評価には異論も多く、特に性自認や人種をめぐる記述は、当事者や研究者から強い批判がある分野です。本ページは著者の論理の紹介にとどめ、賛否を述べるものではありません。2023年時点の内容です。

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